メニュー

少しでも楽に生きていくために~「平常心」とは

[2024.08.28]

当院は「脳神経内科」で、いわゆる内科の一分野なのですが、色々なことに悩み、不安になり、時には涙を流すような、本来、心療内科や精神科を受診したほうがよい方が来られることがあります。

自分は精神科の専門的な研修を受けたり経験を積んだりしていないので、そのような方に適切な言葉をかけることはできず、大変申し訳なく思っております。

ただ、自分自身もマイナスの感情になることはあり、心に響くような言葉を本で読んだり、お寺の法話で聞いたりして、救われるような気持ちになることがあります。
自分は特に仏教徒というわけではありませんが、禅の言葉などには共感できることが多いです。口下手で直接うまく話せないので、少しそのような言葉をご紹介します。

「平常心」は普通、へいじょうしんと読みますが、禅では「びょうじょうしん」と読み、「あるがまま、そのままの心」を表すそうです。
無理して強がって恐れないようにするのではなく、「不安なときは不安でいい」とそのまま肯定するというようなことのようです。

少し話は飛びますが、先日、以前から気になっていた能登の被災地の状況を、自分の眼で見ておきたい、見ておくべきではないかという想いから、一人で見に行きました。
営業を再開した店や施設がある一方、まだ倒壊して無残な姿のままの木造家屋を目の当たりにし、恐らくそれらの家で亡くなった人がいることを実感し、胸に突き刺されるような衝撃を受けました。
傾いた電柱、隆起した道路など、まだまだ復興の道は半ばだと思いました。

その帰りに、羽咋市の永光寺を訪れました。駐車場から、長い参道を上って行きましたが、非常に暑い日で、汗を拭きながら歩いて行きました。静かな風情のあるお寺で、参拝する人も少なかったのですが、何か目に見えない力を与えていただけるような雰囲気のお寺でした。
そのお寺を開山した瑩山禅師は、「人の真実の生き方は、なんのこだわりもなく、はからいもなく、平常心の日常生活そのものこそ禅の道に他ならない」と教えられていたそうです。
似たような言葉を聞くことはよくあるかもしれませんがが、今回は全くその通りだと腑に落ちる感じがしました。

江戸時代後期、越後で大地震が起こった時に、近くに住んでいた禅僧である良寛和尚が知人に送ったお見舞い文の一節に「災難にあう時節にはあうがよく候/死ぬ時節には死ぬがよく候/是はこれ災難からのがるゝ妙法にて候」と書いてあったようです。
「死ぬ時節には、死ぬがよく候」というのはやや極端にも思えますが、まずは災難という現実を受け入れ、そのなかで何ができるかを考える、災難を乗り越えるためには、その現実を受け入れるところからしか始まらないということのようです。

実際に悩みがない人は少ないでしょうが、悩み自体にあえて抵抗せず、あるがままを受け入れる、ということで、少しだけ気持ちが軽くなる人もいるかもしれません。
十分理解するにはなかなか難しく、うまくご紹介できなかったかもしれませんが、何か少しでも感じることがあれば幸いです。

▲ ページのトップに戻る

Close

HOME